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2012年9月14日 (金)

教室にて・・・宮澤賢治(雨ニモマケズ)

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今月の教室では「宮澤賢治」のノートを、なるべく本物に近い形でという事で、もう一度勉強を兼ねながら作っています。

賢治の「雨ニモマケズ」は、あまりにも有名ですが、時々「賢治のように、雨にも負けず、風にも負けず、頑張ろう!!」って書いた物を頂くと、ちょっとだけ違和感を感じる事が有ります。

賢治のこの有名な言葉には、斉藤宗次郎というモデルがいたと言われていますね。

この人の生活が、賢治に影響を与え、言葉が生まれたと・・・

「斉藤宗次郎」

宗次郎は1877年、岩手県花巻市でお寺の子として生まれました。

彼は小学校の教師になり、ふとしたことから聖書を読み、1900年の冬に洗礼を受け、花巻市で始めてのクリスチャンに。

この時代、キリスト教は「耶蘇教」と呼ばれ人々から迫害を受けたため親からは勘当され、町を歩けば「ヤソ」と、あざけられ石を投げられる事もしばしば。

数々のいわれのない中傷から、小学校の教師を辞め、更には大事な子供まで(お腹を蹴られて腹膜炎)亡くします。

苦しみの中で神に祈り、一日40キロの牛乳配達と新聞配達の毎日を20年間続けます。

普通なら迫害のない違う土地へ移るのですが、宗次郎はその土地の人々に愛で仕えます。

「でくのぼう」と呼ばれながらも、子供に会うと飴玉をやり、仕事の合間に病気の人のお見舞いをし励まし、、彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人々のために祈り、働き続けました。

1926年、内村鑑三に招かれ東京へ引っ越す事になり、花巻を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、町長はじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は停車時間を延長、徐行させる配慮。

その群衆の中に、若き日の宮沢賢治もいたそうです。

東に病気の子供があれば行って看病をしてやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負いという賢治の詩にあるようなことを普通にやっていた人で、賢治が「そういう人になりたかった」という想いを込めて書いたのではと言われているようです。

違うという説もあるようですが、大きな影響を賢治に与えたのは間違いないのではと思ってしまいます。

皆さんは、いかがですか?

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コメント

私もこの歳になるまでこの詩が作られたいきさつを正しく理解していませんでした。そういうことだったのですね。教えて頂いてありがとうございました。

投稿: 一休 | 2012年9月14日 (金) 22時11分

私も初めて知りました。ありがとうございます。

投稿: ちかさん | 2012年9月15日 (土) 08時40分

凄く勉強になりました
ありがとうございます

投稿: みるく | 2012年9月15日 (土) 12時14分

sun一休さん・ちかさん・みるくさん
偉そうに書いているのですが、私も1999年の講座で手帳を手に入れ、斉藤宗次郎に関しては、最近知った次第です。

宗次郎にこの詩をかぶせてしまうと、宗次郎が薄っぺらな人物に見えてしまうので嫌う人もいるそうですから、知ったかぶりも大概にしないと・・・気をつけます。

投稿: アイアイ | 2012年9月16日 (日) 17時42分

知りませんでした、ありがとうどざいます。数年前、かの下のはたけを見に行きました。

投稿: Colas Breugnon | 2012年9月27日 (木) 23時57分

sunColas Breugnonさん

お役に立ったのでしたら、嬉しいです。

この説に異論を唱える人もいますので・・・。

投稿: アイアイ | 2012年10月 1日 (月) 19時29分

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